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雉子橋【きじばし】一ツ橋【ひとつばし】神田橋【かんだばし】昌平橋【しょうへいばし】左衛門橋【さえもんばし】美倉橋【みくらばし】和泉橋【いずみばし】都会のオアシス皇居 (江戸城跡橋編) その2出典「千代田まち辞典」抜粋(千代田区発行)    画像協力千代田区文化振興課平成十七年三月十五日発行寛永六年(一六二九)架けられた。名の由来は徳川家康が朝鮮の使節を饗応するための雉子を囲った場所が近くにあったため。現在の橋は大正十四年に架けられた。名の由来は、徳川家康の入府のころに大きな丸太が一本架けられていたことによる。現在の橋は大正十四年に架けられた。慶長のころ(一五九六~一六一五)は「芝崎口」といい、寛永のころ(一六二四~四四)には、橋の西南に土井大炊頭(土井利勝)の屋敷があったため、「大炊殿橋」となっている。その後「神田橋」と改めたが、関東大震災で焼け落ちた。現在の橋は大正十四年に架けられた。最初は寛永年間(一六二四~四四)に架けられた。古名に「かり橋」「新し橋」「相生橋」、また一口坂(いもあらうざか)に近いので「芋洗橋」などがあっ江戸期に架けられ、改築を経て現存する橋を紹介しています。平成十七年当時の記録を参考にしています。た。「昌平橋」の名のおこりは、元禄四年(一六九一)将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を造営し、孔子の故郷である中国の魯の国昌平郷にちなんで「昌平橋」と名乗ったことによる。橋の北側に酒井左衛門尉の屋敷があったことからこの名が付いた。明治四年の『東京大絵図』には記載がなく、明治三十三年発行の『新撰東京名所図会』には「長十四間幅三間なり。明治八年換架(経費千八百八十一円)したりしが、爾来二十五星霜を経、朽損せしを以て目下新設工事中にて」とある。現在の橋は昭和五年に架けられた。別名「くわんしんはし)「あたらしはし」。承応年間(一六五二~五五)に「くわんはし」とあり、寛文年間(一六六一~七三)以降には「あたらしばし」として出てくる。神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり、「三倉地」と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていました。明治二年に「三」を「美」に改め、町名・橋名にした。現在の橋は昭和四年に架けられた。別名「和泉殿橋」「御入用橋」。寛永のころ(一六二四~四四)には「いつみ殿橋」とあるが、その名の由来は神田川の北側に藤堂和泉守景虎がかけたことによるとも伝えられる。たびたびの火災で焼失したが、明治二十五年に架けられた。神田橋門跡31

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